九谷焼について
~江沼九谷のながれ~
【古九谷(九谷古窯)】
九谷焼の始まりは、江戸時代前期にさかのぼります。大聖寺藩領内であった加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉九谷)で原料の陶石が発見され、大聖寺藩がこの地に窯を築いて焼成され始めたので、この地名をとって「九谷焼」と名付けられたといわれています。起業したのは大聖寺藩初代藩主の前田利治で、事業を推進した中心人物に陶石を発見した鋳金師であった大聖寺藩士・後藤才次郎がいました。操業期間は明暦元年(1655)頃から宝永7年(1710)頃と推定されており、この期間に焼成された焼物が現在「古九谷」と呼ばれています。
【再興九谷吉田屋窯】
古九谷が廃絶してから約100年ほどして、瀬戸での磁器生産の成功に触発され、九谷焼を復活させようとする動きが出てきました。古九谷発祥の地である大聖寺藩領内では、大聖寺で酒造業等の事業を営み町年寄も勤めていた豪商・豊田家(屋号を吉田屋という)の四代伝右衛門(石翁)が古九谷の復興を志し晩年の心血を注いで文政6年(1823)に九谷村の九谷古窯跡の隣に築窯を開始、文政7年(1824)に初窯を焚きました。ここにようやく九谷焼の再興が叶ったのであります。古九谷が廃窯されてから実に120年もの歳月が流れました。
古九谷発祥の地で開窯した吉田屋でありましたが、交通の利便性の悪さや冬の積雪の多さなどから文政9年(1826)には山代越中谷に移窯しました。九谷焼を再興した吉田屋は山代に移されても九谷窯であり、製品は九谷焼と呼ばれました。
四代豊田伝右衛門は明和7年(1770)に家督を継いでいます。幼少より学問を好み、儒学・詩文・絵画・書に精通し、「石翁」という号を用いた文化人であり、その彼が古九谷の再興を志したのは70歳を過ぎてからでした。文化人として高い見識を持った伝右衛門は利益を考えず、古九谷再興のために巨額の投資を行ったのです。古九谷再興の夢を果たした四代豊田伝右衛門は山代に移窯後1年を経ずして、満足したかのように文政10年(1827)6月に没しました。
吉田屋は古九谷の再興のため採算は度外視して投資を行い、多くの名品を作り出しましたが、窯経営が吉田屋の家業全体に悪影響を与えるようになりました。四代豊田伝右衛門が没する前に家督を譲っていた五代伝右衛門は先に亡くなっており、孫の仙蔵(6代伝右衛門)が家業を受け継ぎましたが、経営状況は悪化の一途をたどり、ついに天保2年(1831)には窯の経営権を手代であった宮本屋宇右衛門に譲渡しました。
【宮本屋窯】
窯を引き継いだ宮本屋宇右衛門は、幼少より吉田屋に奉公していました。吉田屋の窯経営では手代(番頭格)を勤めていました。宇右衛門は赤絵の名手飯田屋八郎衛門を引き入れ、高価な絵具をふんだんに使う青手から時代の好みにあった赤絵の方に生産品の主軸を移しました。宮本屋といえば赤絵細描といわれますが、主軸から外れた青手も生産されていたと思われます。赤絵細描は同じ山代の木崎卜什が江沼郡で最初に始めました。宮本屋窯の絵付主任となった飯田屋八郎衛門は元々染物職人でしたが、中国の墨型見本の「方氏墨譜」からヒントを得て宮本屋窯独特の赤絵細描のスタイルを確立したといわれており、そのため赤絵細描は「八郎手」ともいわれます。
宮本屋窯は飯田屋八郎衛門の努力もあり順調に経営されていましたが、窯場を取り仕切り、後継者と目されていた宇右衛門の息子、理八(利八)が宇右衛門に先立って没し、宇右衛門も弘化2年(1845)にこの世を去りました。その後、天保の改革のあおりを受けて徐々に衰微しましが、嘉永5年(1852)に主工であった飯田屋八郎衛門が没すると一層経営は不振に陥り廃業同然となって、ついに万延元年(1860)には大聖寺藩物産所に窯とその経営権が譲渡されました。
【九谷本窯】
宮本屋が窯の経営に行き詰まっていた万延元年(1860)頃、殖産興業に取り組みだした大聖寺藩は九谷の直系であるこの山代の窯を藩の直営にすると決定しました。藩の産物方に藩士の塚谷竹軒、浅井一毫を用いてこの窯を買収させて名称も正式に「九谷本窯」と称しました。江戸時代の末期に技術面で行き詰まり、打開のため京焼の名工、永楽和全を招聘しました。和全との交渉には藩士で経世家として知られた東方芝山が深くかかわっていたのです。和全は慶應元年(1865)来藩し、明治3年(1870)まで九谷本窯で技術指導にあたりました。その間に荒谷村で良質の陶石を発見するなど和全の指導によって品質改良がなされ多くの優品を生み出すようになったのです。
明治4年(1871)廃藩置県により大聖寺藩が消滅すると、窯は藩から窯場の責任者に任命されていた旧藩士の塚谷竹軒と、松山窯にいた大蔵壽楽(松山清七)に下げ渡されました。この民営の九谷本窯のことを竹軒窯とも称します。竹軒は自らを「九谷五世」と称しました。一世が古九谷、二世が吉田屋、三世が宮本屋、四世が永楽で自分が五世であると、この山代の窯が正統な九谷焼の主流であることを宣言したのです。
【九谷陶器会社以降】
九谷本窯は海外向けの製品企画に着手するなど質の高い製品を生産していましたが、経営状況は決して良好ではありませんでした。明治12年(1879)石川県令千坂高雅は不振を惜しんで旧大聖寺藩士の飛鳥井清に資本金2千5百円を補助して会社組織とさせました。飛鳥井清自らが社長となり本社を大聖寺において、窯場の支配人に大聖寺藩士であった竹内吟秋が就任して絵付を担当しました。吟秋は飯田屋八郎右衛門に弟子入りしましたが藩士であったため10日あまりで大聖寺に戻されたといわれています。画工部には吟秋の弟のこれも大聖寺藩士であった浅井一毫が画工部長として就任し、兄弟そろって絵付けに腕を振るいました。
明治15年(1882)に現在の加賀九谷陶磁器協同組合の前身である江沼郡陶画工同盟会が組織されると飛鳥井はその会長を勤め、翌年に金沢から名工初代須田菁華を招きました。こうした努力によって九谷陶器会社は軌道に乗り始めましたが、その矢先の明治16年(1883)12月に大聖寺大火で本社が焼失したため、心労から飛鳥井清が病没しました。明治18年(1885)梅田五月が社業を引き継ぎ、翌年には同盟会から組織変更した江沼郡九谷画工組合の初代会長に就任しました。磁工長に浜坂清五郎、画工長に須田菁華を任命して挽回を図りましたが、明治22年(1889)に会社は解散し、翌年に山代の永井直衛に引き継がれ、社名を九谷陶器本社と名乗りました。明治33年(1900)に会社は大蔵寅吉に譲渡されるなど紆余曲折を経ましたが、その間も良品を生み出し続けました。明治36年(1903)に江沼郡九谷画工組合から江沼郡九谷陶磁器同業組合に名称が変更され、良品を生産し続けようとする体制を維持し続けました。ところが、明治37年(1904)日露戦争が始まると九谷の業界は低迷し、多くの実力ある陶工たちは独立していったのです。大正8年(1919)に大蔵寅吉は会社を九谷寿楽製陶株式会社に改編し、義兄の大蔵庄次郎が社長に就任、寅吉と嶋田善作が取締役となって大聖寺伊万里の素地を中心に生産しました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災後の銀行倒産のあおりを受け、翌年解散を余儀なくされ、その後は嶋田善作が九谷寿楽窯として経営を引き継ぎ、個人経営となって現在に至っています。